2008年7月26日土曜日

エビデンス

EBM:evidence-based medicine」は医療を行う上で、もっとも重視しなければいけない考え方のひとつとされているが、果たしてそうだろうか!?

EBMとは「入手可能な範囲で最も信頼できるevidence(根拠)を把握したうえで,1人1人の患者に特有な臨床状況や価値観を考慮した医療を行うための一連の行動指針」とされ、5つの手順を踏むようになっている。
Step 1 目の前の患者についての問題の定式化
Step 2 定式化した問題を解決する情報の検索
Step 3 検索して得られた情報の批判的吟味
Step 4 批判的吟味した情報の患者への適用
Step 5 上記1〜4のstepの評価
そして、研究方法としてはランダム化比較試験(RCT:Romdamized Contorol Trial)で得られたエビデンスを最も信頼できるものとしている。
しかし、このようにして得られたエビデンスは100件のエビデンスのうち23件が2年以内に覆され、そのうち7件は出版された時点で既に覆されているとの報告がある。

EBMとういう考え方自体は診療を行う上で非常に有用であると考えるが、その元となる「エビデンス」自体に果たしてエビデンスはあるのだろうか?


ある結論を推論する方法として、「演繹」と「帰納」という二つの考え方がある。
演繹とは一般的・普遍的な前提からより個別的・特殊的な結論を得る推論方法であり、帰納は逆に個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法である。
数学・物理・化学などの考え方は演繹に基づいており、演繹の代表例として三段論法( 「人は必ず死ぬ」という大前提、「ソクラテスは人である」という小前提から「ソクラテスは必ず死ぬ」という結論を導き出す)がある。
帰納法ではなんらかの仮説を正当化する場合、当の証明者は「全ての物事は、他に事情がない限り、いままで通り進んでいく」という斉一性の原理に従っている。
よって、演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。

では、RCTにおける証明法とはいったいどういったものか・・
「100人の患者にある薬と対照薬を投与し、それで有効かどうかを証明する」といったものが一般的であるが、果たしてここから得られるエビデンスにどれだけでの「エビデンス」があるのか?
考え方としては帰納法に近いものになると思われるが、ここには演繹法とは違いなんら前提となる科学的根拠は無いのである。

学問としての医学は科学であるべきであり、基本とすべき数学・物理・化学によって科学的証明がされるべきものである。
したがって、科学的証明が明らかなものに対してEBM(RCT)において改めて証明される必要はなく、EBM(RCT)がないとの理由で批判されることもない。
医学はあくまでも科学の一分野に過ぎず、人間の体も物理法則・化学法則の支配下にあるのだ。

そうは言っても、前提となる法則や理論が証明されていない分野においては、演繹は成立せず、そのような場合にも帰納は成立し、新しい分野の開発や新しい理論を模索する場合には帰納的な考えに基づくEBM(RCT)も有効と考える。

つまり、EBM(RCT)はあくまでも推論法(証明法)としては、完全なものではなく常に優先すべき考え方でもない。
むしろ科学的証明のエビデンスの質としては十分ではなく、それによって導かれる根拠の利用においては十分な注意が必要であると考える。

2008年7月5日土曜日

地域医療の目指すもの

地域医療をやっていて、一番楽しいのが「訪問診療」である。
病院ではみられない患者・家族の笑顔がそこにはある。

病院では患者・家族は慣れない場所で、白衣の人間に囲まれてきっと居心地の悪さを感じていることであろう。
しかし、一旦病院を離れて地域へ出れば、今度は白衣の人間が異質な存在となる。
当然の事ではあるが、自分の家の中では患者・家族はとてもリラックスし、自分の布団で寝起きをし、自分の庭でとれた野菜を食べ、いつもの風景をみながら生活している。
カルテで知る患者の生活が現実のものとしてまさにそこにあるのだ。


先日行ったある訪問診療での事・・
患者は80代の男性で脳梗塞発症後に長年寝たきりで、会話は出来ず、食事は胃瘻からである。
喀痰が多く、舌根沈下しやすい事もあり、肺炎などを起こすと直ぐに低酸素血症となる。
今回も肺炎から入院となり、3ヶ月の入院加療にてようやく退院する事になった。
本来であれば気管切開等の適応であると思われるが、家族(特に妻)はそれを望まず家に吸引器を購入し、退院後は家族が頻回の喀痰吸引をする事となった。
そして、先日が退院後はじめての訪問診療。
妻は患者のベッドの横に自分のベッドを置き、一日中患者に付きっきりで看病をしていた。
妻自体も高齢で決して元気ではないが、吸引器の使い方を覚え、頻回に患者の痰吸引をしているという。
夜も1時間おきに起きては、夫の様子をみているらしかった。
妻が休まるのは数少ない訪問看護とヘルパー訪問の時のみ・・
それでも妻はこう言った・・
「先生と看護婦さんがこうしてわざわざ家まで来てくれるだけで十分です。昔は先生が家まで来てくれる事なんてなかった。家で悪くなれば諦めるしかなかった時代です。今は本当に物が溢れ、良い時代になった。これ以上望むのは贅沢です・・」
そう言って、今以上の訪問を断った。
そして、痰のからんだ患者の痰を看護師が吸引すると、妻は「良かったね~」と言って夫の頭を撫で、抱きしめて喜んだ。それはまるで母親が幼い我が子を抱き締めるようであった。





へき地・離島に住む人々にとって、理想とする地域医療とはどんなものなのだろうか!?


へき地・離島医療を考えるのに、参考となるHPを紹介したい。
http://www7.plala.or.jp/machikun/chiiki2.htm

この中で述べられている「自治医大方式」「徳州会方式」について考えてみた。
http://www7.plala.or.jp/machikun/ritoushujutu.htm

ここで「自治医大方式」とは、
経験の少ない若い医師が派遣される自治医大方式では診療所は初期治療&慢性疾患の診療にとどまり、手術等が必要な患者はすみやかに基幹病院へ搬送する、ということが前提となっている(オープンシステム、軽装備診療所方式)と説明されている。その背景にある考え方は「へき地・離島ではあまりよけいなことはやるな」である。

一方、「徳州会方式」は、
人口規模に比して過剰ともいえる手術設備、CT/MRI等の重装備を備えた病院で、医療が離島で完結することをめざしている(クローズドシステム、重装備病院方式)。その背景にある考え方は「地域治療は出来るだけその地域で行われるべき」である。

どちらが優れているとは言わないが、それぞれに利点・欠点がある。
「徳州会方式」を先に言えば、重装備病院の設備を使いこなせる実力のある医師が派遣された場合にはまさに理想的な病院であるが、そうでなければただの立派に着飾った箱にすぎない。

「自治医大方式」の場合には、初期治療をきちんと行い、適切な病院へ紹介・搬送できる医師がいれば、それなりの医療を行っていけると思われるが、これが方向性を間違うととんでもない事になってしまう。
患者・家族とすれば、自分の住み慣れた土地で、出来ることなら自分の町の病院で治療を受けたいと思うのが当然である。
そして、その望みを出来るだけ叶えてあげたいと我々医師も少々無理をしてでも頑張るわけであるが、その思いに偏り過ぎるあまり、「自治医大方式」の中でクローズドシステムを取り入れる医師がいる。
すると、どういった事が起きてしまうだろうか・・

そういった医師の日常診療での決まり文句は、「経過観察」と「DNR」である。
高齢者の多いへき地・離島医療において、この二つの言葉が他の地域に比べて使う事が多いのは確かだ。
しかし、この二つの言葉を使い慣れてしまうと、医師は頭を使わなくなる。
80代・90代で寝たきりであれば、熱が出ようが痰が出ようが、培養もせず抗生剤も使わずとりあえず経過観察。そのまま採血もレントゲンもとらず、DNRはしっかりとって経過観察・・
そして、ついにはそれを50代・60代の患者さんにまでやってしまう事になる。
時には・・。
そのような医師は、へき地・離島においてもネット環境が整い情報が溢れる時代において、新しい知識を取り入れようとせずに自己流の医療を続ける事になる。
医療だけでなく、自分の医療レベルをも「クローズド」してしまうのだ。
そのまま自分の危うさにも気付かずに、preventable deathを作り続ける。



へき地・離島という環境では、病院スタッフも含めて町全体が家族のような繋がりを持っているが、やはり地域医療を考えるにはそこに甘えすぎてはいけない。
医師だけでなく、看護師始めとする他の医療スタッフも自分の仕事に誇りを持ち、自分たちの住む地域を少しでも良くしていくために不断の努力を続けていくべきである。


患者・家族が諦め続けないといけないような地域医療であってはならない。
老いた夫婦でも安心して過ごせる地域を目指していきたいものである。

2008年7月2日水曜日

命の糸

『西都医師会病院:常勤医2人目を確保、内科診療を再開へ /宮崎』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080701-00000195-mailo-l45

厳しい状況の続く宮崎の医療の中で、久しぶりの明るい話題ではないだろうか・・
しかし、宮崎の医療、特に「救急医療」は既に限界状態である。

県北唯一の第3次救急医療施設である県立延岡病院では、医師不足から重労働が重なり、さらに医師がやめていくとう悪循環から医師数がどんどんと減ってきており、4月には知事・市長が患者へ「コンビニ受診」を控えるように呼びかけた。その成果もあってか5月以降、救急患者数が約3割減少したようだが、現場への負担はまだまだ相当のものがあると思われる。

『募る疲労「医師足りない」 県立延岡病院・救命救急センター 新研修制度導入が直撃』
http://news.goo.ne.jp/article/nishinippon/region/20080608_local_M_001-nnp.html?C=S

さらにこんな話題も・・
『周辺8病院が夜間対応 宮崎市郡医師会病院内科医不在』
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=8782

これらはもう単にそれぞれの病院の問題ではなく、宮崎県全体の問題である。

みなさんは「119番」したらどこに繋がるか知ってますよね!?当然、「消防」です。
しかし、この常識が通用しない地域が宮崎には7町村もあり、これは県土面積の約4分の1を占めています。
日本の消防は消防機関として、市町村が設置しなければいけない消防本部(常備消防)と主に民間ボランティアで構成される消防団(非常備消防)があり、119番をした場合には消防本部の方に繋がるわけですが、非常備消防しかない地域ではこれが繋がりません。
小さな市町村などでは組合消防などをつくり、常備消防を設置するのが普通ですが、宮崎の4分の1の地域ではそれさえも存在しないのです。
最近になって、ようやく「宮崎県市町村消防広域化推進計画(案)」が出てきましたが、これも平成の大合併を契機に総務省消防庁から消防広域化推進の動きがあってからです。


なぜに宮崎の救急システムはこんなにも遅れているのでしょうか!?
隣県である熊本県は全国のお手本になる程に県全体での救急体制が整っており、お互いに協力し合い、それぞれの病院が役割分担を持って動いています。
熊本県に出来て、なぜ宮崎県で出来ないのでしょう!?

これを解決するためには医療だけでなく、経済・交通・教育等のあらゆる問題を解決していかなければいけないのは分かっていますが、そんなに悠長な事を言っている暇はもはや無い気がします。

今、もし、宮崎で大地震が起こったら・・
想像しただけで、背筋が凍りつきます。

知事もCMで言われておりますが、備えるのは「今」、「今すぐ」しなければいけないのではないでしょうか!?

ピンピンに張った糸は簡単に切れます・・